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右往左往するアラサ―女子の、気ままな備忘録・雑記です。

コマエンジェル公演『幾星霜OKAWARI』~すべての女にあった「いつか」と私の「これから」を見た気がした

京都狛江市を拠点に活動する主婦パフォーマンス集団「コマエンジェル」の「幾星霜 OKAWARI」を、5/28に観劇した、その備忘録です。
2016年9月に上演された「幾星霜」の再演だそう。

「女性の強さ」を感じる二重の構造が素晴らしい

「コマエンジェル」の由来は、発足当時にC・ディアス版の『チャーリーズ・エンジェル』があったからとどこかのインタビュー記事で読んだ。
でも、コマエンジェルの皆さんは、本当にエンジェルだ!と。

(1)『幾星霜』のストーリー自体(2)演者のコマエンジェルの皆さん自体も、「女性の強さ・バイタリティ」を観客に感じさせる。
(1)と(2)の二重構造になっており、なんて素晴らしい舞台コンセプトなんだろうと、このコマエンジェルの皆さんじゃないと達成できないテーマだなと。

(1)『幾星霜』のストーリー自体

■舞台の概要、ざっくり

この舞台は、一人のおばあさんの一生を振り返る、というもの。
子供時代、女学生時代、踊り子時代、花嫁時代、新婚時代、ママ時代、オバチャン時代・・・と、
一人の女性の人生の流れを、笑い9割・涙1割な感じで、コマエンジェルの皆さんが顔芸を細かく入れながら、歌い・舞い踊る舞台!
ちなみに”幾星霜”というのは、長い年月をさす言葉だそうです。人生の年輪ですね、まさに。

■すべての女にあった「いつか」と私の「これから」を見た気がした

お母さんもおばあちゃんもひいおばあちゃんも…全ての女性に、子供時代があり、若い女の子の頃、頑張って働いた頃、嫁いだ頃、子育てをした頃、オバチャンとして多少自由になった頃、そしておばあさんになっての晩年があるということ。

自分にとっての関係性のラベルで、一人の女性を「母」「叔母」「祖母」「義理の母親」…とみていると、その女性の人生の年輪の1本1本に想像をめぐらすことは、あまり機会は多くない。
この舞台を見た観客は、自分を取り巻く女性の年輪に、人生に、思いを巡らせずにはいられない。

そして、観客が女性であれば、自分の「今まで」と「これから」を振り返ったり垣間見る機会にも。
私はまさに30代、いわゆる「壮年期」に位置しているので、この劇では頑張って働き戦いに戦いを重ねる踊り子時代といったところ。
この舞台での主人公の女性は、踊り子時代、靴に画びょうを入れられてもめげないでトップダンサー目指して頑張ったそうですが、
私も画びょうは入れられないけれど、「負けね~!」と思って日々働いているので、共感of共感。

(2)演者のコマエンジェルの皆さん自体

■コマエンジェルの皆さんの今までの人生を、想像せずにはいられない

「女性の強さ」とは何か

色々要素はあるとは思うけれど、この舞台から導くなら、
「女性の祈りの強さ」や「割り切りの男らしさ」の共存した状態だとか、いつも生き方・優先順位が変わっても笑っている柔軟性・タフさなんじゃないかなと思う。
他者である観客にとっては、そういったものを、どっかしらの「畏怖」「神々しさ」に似た何か として受け取る。そんな舞台、そんな演者の皆さん。

ね、コマエンジェルって、ホントに「エンジェル」でしょ?

帝劇2017年『レ・ミゼラブル』~物語のアイコン/女神がファンテーヌたる理由がやっとわかった~

観劇日記

レ・ミゼラブルはミュージカルファンでなくても知ってる、V・ユゴー原作作品。
今年は帝劇のレミゼ初公演から30周年だそうです。


※ここから先は解釈の勉強をしたのではなく、私のかいつまんだ知識とか感じたことの複合的な雑感であり、正しいかはわかりません。勉強されている方、よろしければ是非、不足点を教えてください。※

愛、罪、赦し、祈り、慈悲、絶望、そして救済

レ・ミゼラブルは、人間の本質と生死を実にキリスト教的に、いろんな人たちの姿に描いていますよね。

  • どん底にいる人間であっても、愛を持ち続け、愛する人のために祈ることができること
  • 親が子供に持つ愛は、我が身すら売り渡すほどのものだということ
  • 罪を犯したのにもかかわらず、慈悲をかけられ赦されることで、悔い改めた先には人を愛せる人間になれること
  • 罪人だと思っていた人間に命を拾われ、自分の信じていた「正義」に疑念を持ち、自分もまた罪人(キリスト教的な原罪ですね)だと絶望すること
  • 生きることの欲目にかられた人間は、死体からものを盗むほどの浅ましさに身を落とすこと
  • 恋を知らなかった人間が運命の恋に落ちること
  • 叶わない片思いでも、好きな人のために頑張ってしまうのは他でもないその人への愛と祈りということ
  • 戦いの前に、人間はどんどん簡単に死んでしまうということ
  • 生き切った後の死とはつまり、救済であること
  • 罪人も聖人に、聖人も罪人になること

罪人も聖人に、聖人も罪人になること

こちらのテーマは、ジャンバルジャンとファンテーヌに象徴的です。

  • ジャンバルジャン:パンを盗んで脱獄を繰り返した罪人でしたが、ファンテーヌに出会い、ファンテーヌの娘・コゼットちゃんを守ることで聖人なります。
  • ファンテーヌ:辛い境遇にも負けない淑女(聖人)でしたが、娘のコゼットちゃんを生かすための稼ぎが立ち行かなくなり、娼婦(罪人)に身を落とし、絶望の中に死んでしまいます。

更に面白いのは、ジャンバルジャンを追っかけ回る私服警官のジャベールの存在です。
彼はジャンバルジャンのことをずっと罪人だと思い込み続け、また、その狂気に似た思い込みを自分の正義として様々な罪を重ねて生きます。
ジャベールは、「罪人と聖人は隔てがある」と(特にキリスト教バックグラウンドがあると)思いがちな、奢りや暴力性の象徴なのでしょう。

レ・ミゼラブルが観客にもたらすもの:救済

どんどん人は不幸の中で死ぬし、恋は報われないし、それぞれの登場人物が目も当てられないほど酷い目に遭うのですが、観客は悲しみの涙と一緒に、心が洗われた気がするんです。

なんでかっていうと、たった一人だけ‥自分を愛してくれた人の祈りが届き、希望のある人生を歩める人がいるからです。
それは、不遇の死を遂げたファンテーヌの娘・コゼットちゃんです。
コゼットちゃんは、ファンテーヌと元罪人ジャンバルジャンの愛と祈りの結晶とも言える、二人の祈りが叶えられた人生を予感させてくれる存在。
だから観客は、ジャンバルジャンがファンテーヌの姿の幻を見るラストシーンで、ジャンバルジャンとファンテーヌがコゼットちゃんに思っているだろう祈りの気持ちと愛をもって、舞台を見つめることができます。

実際は日常生活で、心から人の幸せを祈るなんて、俗人はそうそうできません。(私だけ?)
それなのに、レ・ミゼラブルは俗人の観客に、そんなすごいことをさせてくれます。
出会って数時間の、コゼットちゃんに。

この物語の女神・アイコンがファンテーヌたる理由

レ・ミゼラブルは、ジャンバルジャンの一生を描く物語、と銘打たれているものなのですが、そのジャンバルジャンは(もはや女神的な)ファンテーヌ/神様の御心を達成するためのvehicle(装置・手段)的立ち位置の主人公です。
観客はファンテーヌ/神様の目線で物語を観させられる‥という、ユゴーの作り出したそんな構図がとても面白いなぁと感じます。

新キャスト二宮愛さんのファンテーヌは実に現代的な女性像で、心打たれました。

そんなことを、新キャスト二宮愛さんの素晴らしいファンテーヌを観ながら、感じたのでした。
二宮さんファンテーヌの強い姿に、祈る姿に、愛を諦めない姿に、
レミゼラブルは悲劇ではなかった」とやっと気づいたのでした。
他でもない、愛と救済の物語だったんですね!

東宝さん、再演お願いします!絶対また観に行きたいです。

故人からの手紙が届いた ~誰かからもらった「愛」は「生きるためのお守り」

っていうのは、evernoteを同期しただけなんだけど

長らくevernoteを起動してなくて、起動してみたのですって話。

すると、2014年にお手紙的に書いてくれた、彼のevernoteが私のevernoteに同期された。
当時「あれ、うまく届かないなあ、まあ、そのうち渡すよ」と言ってくれていたものだった。

「なんで今のタイミングなんだろう」なんてロマンチックなことは思わない、ただの偶然。
でも、やっぱりそれはどうしようもなく心を揺さぶるものだった。

故人からの手紙

ユキ、祈ってるよ。

先の見えないもやもやがあなたを取り巻いていて、いつ終わるとも知れないものに対面しつづけることは、ほんと大変なことだよね。

○○のことで助け手が与えられますように。
ひとりで苦しむときは終わらせられますように。

僕はあなたと寄り添って歩んでいきたい。
今までもそうだったし、そしてこれからも。
僕は、進むべき道をあなたに示してあげられない。
でもね、指図したり、僕の手に負えないことだからと突き放さず、僕にできることをしたい。

実は一番僕ができることは、あなたの側に居続けること。

僕はあなたに寄り添うよ。

心がはりつめるときに、ふと
少しでもあなたの心がふっと軽くなるときがあるといいな。
どうぞ自分を責めないで。あなたは悪くない。

どうぞ自分を否まないで。あなたはとっても大切な存在。
あなたの存在は僕には欠かせない。

風が、あまりに強い風が吹きすさぶとき
人は弱く、揺れ動く。
飛ばされてしまいそうになる風も、
いつしかその風も受け流し
前に前に進んでいける日がきっと来る。

僕は信じてるよ。
助けも、力も、きっと与えられると。

どうか忘れないで。
あなたはひとりじゃない。

どうか心に留めていて。
あなたは愛されている。

あなたが涙を流すときに、
いまは僕が隣にいる。

あなたを心に留め、祈ります。
H

2017年、一人ぼっちの私が思うことなど

「そのままそっくりお前に返したいわボケ」 ただそれだけである。
「どうして、こんなに優しい言葉を、祈りを持てる彼が、自分の悲しみ・苦しみ・寂しさ・焦り・不安・孤独、そして怒りに押しつぶされ、命を絶ってしまったのか?」と改めて疑問に思う。
そして同時に、
「だから死んだのだ」とも思う。
他者の悲しみ・苦しみ・寂しさ・焦り・不安・孤独、そして怒りに敏感な人はきっと、知らないうちにいろんな他者のそれを吸い取ったり引き受けたりしながら生きているのだろう。
対面の相手を元気にする代わりに、きっと黒いもやもやを引き受けて、自分の中に押し込めてしまうのだろう。
私も絶対に、私の黒いもやもやを、彼に引き受けてもらっていたのだ、たくさんたくさん。

私だって同じように彼を愛していた。
だけど、私の愛は彼に届かなかった、至らなかった。黒いもやもやをけしてあげることができなかった。
ただそれだけだ。それは本当にこっちだって死んでやりたいくらいの絶望と後悔。

これ以上の愛はきっとないんだろうし、なければいいと思う

およそアラサー(変な日本語)の私、健康に生きればあと50年くらい寿命がある。
家系的に90歳くらいまでみんな生きながらえているから、もうちょい生きてしまうかもしれない……。

残り50-60年の寿命の中で、こんな愛に、これ以上の愛に出会うだろうか。私は。
2017年5月末の私の仮説は、NOで。
そして、それは仮説というだけでなく、願望でもある。
「あの子が一番、私を愛してくれたな~」と思いたい、そんな願い。

誰かからもらった「愛」は「生きるためのお守り」

1年以上が経つ今も、不意に、あの子の不在に涙が出る。
あの子が好きだった音楽、本に触れた時。
一緒に歩いたある日の天気や情景に似ているところに一人で来てしまった時。
夜中にアイスを大量に食べて、「こら~!夜中に冷たいもの食べたら、太るしむくむで~胃腸が休まれへんやないか!」って小言が聞こえる時。
あの子によく似た男性を街のどこかで目にした時。

この涙は、不在を悲しむばかりだったけど、時間が経って少しずつ、感謝が混ざりつつある。
20数年の彼の人生の中で、10年も私を親友として横に携え、一緒に泣き笑い、言葉を交わしあえたこと。
「ユキは大丈夫」とこの手紙のように繰り返し言ってくれたこと、祈ってくれたこと。
もう、その事実は、私の心の中にしかない。
どうやって文章にしたところで、写真や手紙を見返したところで、私の心の中にしかない。
私が誰かと結婚しようと、誰かの親になろうと、変わらない事実。

それは、圧倒的な絶望であり、孤独であり、つまりサンクチュアリでもある。

きっと、誰かが愛をくれても比べてしまうだろう。「足りないな、大したことない」と思ってしまうだろう。だって、これだけの愛をもらっていたのだもの。
でも、「足りないな」なんて思ってるそぶりは死んでも見せないで、「ありがとう」と笑ってみせる。
そして、心の中で、「全然足りないよね、君には遠く及ばないよね」って話しかけて、泣くだろう。
そして、あの子に対する気持ちほどは愛せない自分の愛の弱さに、人知れず恐怖しつつ、同時に「そらそうだ」と思いつつ、それでもその誰かを愛して生きるだろう。

茶番だけど、バカみたいだけど、私はそうやってあがいて生きてやろうと思う。
神様から売られた喧嘩だって、フルスイングで買ってみせる、どうせ負け戦でも。

頭のいいあの子ができなかった、「生き汚さ」を振りまいて。
絶望しながら、寂しいと思いながら、でもおひさまみたいにいつもある愛を仰いで、渇望して。