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右往左往するアラサ―女子の、気ままな備忘録・雑記です。

悲しみの、当事者になれない ~恋人の命日が、迫ってくる

ちょっとした躁状態というか

ちょうど本業が色々と成果の刈り取りタイミングなので、いくらでもやることはある。執拗なシンコペーションを繰り返すみたいに、どんどん球を打って案件を進めている。お客様の成果として見えやすい領域で、協力を仰ぎやすいスキームにあるため、ひたすら千本ノックすれば、ちゃんと収穫できるという安心感。

本業以外に頂いた機会のため、文章を用意したりもしている。編集の方とやり取りして文章をブラッシュするプロセスは、本業と基本変わらない。面白い。

道ならない恋を、悩むどころかエンジョイしてしまっているし、終わる気配もないし終わるつもりもない。だって、すべては神様の采配、生きてる人間に何が出来るもんでもないし、明日の風向きなんて分かるはずもない。

土日は、仕事で気になるものを考えたり進めたりしつつ、最近はインターネットで出会った人に会いに行っている。
中でも、Twitterで出会った方との出会いはものすごくインプレッションが強い。
今までは、インターネットでの出会いなんて、と思っていたけれど、不思議と人となりがわかるしネカマかどうかも分かるので、女性Twittererさんにどんどんあっている。
自分の中の偏見(出会いはオフラインのみ)がボロっと剥がれて、私はまた自由になったように思う。

最近は、こんな感じで割に忙しく、ちょっとした躁状態なのかフロー状態なのか、そんな疾走感の元に生きている。

明らかに、私は、迫り来る恋人の命日に怯えている。

仕事はしなければならないもの、責任を持つべきものなのでいくらのめり込んでも非難されることは基本的にないので、いい隠れ蓑、シールドなのだ。

あの子の気配がする、不意に面影がよぎる。
そんな時に私はすぐに仕事でのやるべき事を思い浮かべている。

私は適切に悲しむことが、出来ない。
適切に悲しんだら、仕事も辞めてしまうかもしれない、私の余生をぶん投げてしまうかもしれない。

でも、

  • 余生をぶん投げてしまうこと
  • 今みたいな意図的な躁状態

どちらが私は自分に降り掛かった悲しみから逃げているのだろう。
本質的には逃避度合いはおそらく前者。そんな気がする。

今はもう、悲しみを自分から乖離させて、「好きで好きでどうしよもなかった男に自死され取り残されたアラサー女がどんな人生を歩むのか」のケーススタディとして、自分を観察するしかできない。

悲しみの、当事者になれない。

悲しみの、当事者になるには、ものすごく勇気がいる。

Bobby CaldwellのWhat You Won't Do For Loveを聞くと、あの子だと思う。
「君が愛のためにしないことだって、僕はするんだ」
その瞬間風速・風圧、それは見たことがない誠意だったし、愛だったし、そしてまた狂気だった。

悲しみの、当事者になれないけど、私はやっぱりあなたが大好きだし、生きてて欲しかった。

だから、私は死んでも「死にたい」って言わない。