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右往左往するアラサ―女子の、気ままな備忘録・雑記です。

帝劇2017年『レ・ミゼラブル』~物語のアイコン/女神がファンテーヌたる理由がやっとわかった~

観劇日記

レ・ミゼラブルはミュージカルファンでなくても知ってる、V・ユゴー原作作品。
今年は帝劇のレミゼ初公演から30周年だそうです。


※ここから先は解釈の勉強をしたのではなく、私のかいつまんだ知識とか感じたことの複合的な雑感であり、正しいかはわかりません。勉強されている方、よろしければ是非、不足点を教えてください。※

愛、罪、赦し、祈り、慈悲、絶望、そして救済

レ・ミゼラブルは、人間の本質と生死を実にキリスト教的に、いろんな人たちの姿に描いていますよね。

  • どん底にいる人間であっても、愛を持ち続け、愛する人のために祈ることができること
  • 親が子供に持つ愛は、我が身すら売り渡すほどのものだということ
  • 罪を犯したのにもかかわらず、慈悲をかけられ赦されることで、悔い改めた先には人を愛せる人間になれること
  • 罪人だと思っていた人間に命を拾われ、自分の信じていた「正義」に疑念を持ち、自分もまた罪人(キリスト教的な原罪ですね)だと絶望すること
  • 生きることの欲目にかられた人間は、死体からものを盗むほどの浅ましさに身を落とすこと
  • 恋を知らなかった人間が運命の恋に落ちること
  • 叶わない片思いでも、好きな人のために頑張ってしまうのは他でもないその人への愛と祈りということ
  • 戦いの前に、人間はどんどん簡単に死んでしまうということ
  • 生き切った後の死とはつまり、救済であること
  • 罪人も聖人に、聖人も罪人になること

罪人も聖人に、聖人も罪人になること

こちらのテーマは、ジャンバルジャンとファンテーヌに象徴的です。

  • ジャンバルジャン:パンを盗んで脱獄を繰り返した罪人でしたが、ファンテーヌに出会い、ファンテーヌの娘・コゼットちゃんを守ることで聖人なります。
  • ファンテーヌ:辛い境遇にも負けない淑女(聖人)でしたが、娘のコゼットちゃんを生かすための稼ぎが立ち行かなくなり、娼婦(罪人)に身を落とし、絶望の中に死んでしまいます。

更に面白いのは、ジャンバルジャンを追っかけ回る私服警官のジャベールの存在です。
彼はジャンバルジャンのことをずっと罪人だと思い込み続け、また、その狂気に似た思い込みを自分の正義として様々な罪を重ねて生きます。
ジャベールは、「罪人と聖人は隔てがある」と(特にキリスト教バックグラウンドがあると)思いがちな、奢りや暴力性の象徴なのでしょう。

レ・ミゼラブルが観客にもたらすもの:救済

どんどん人は不幸の中で死ぬし、恋は報われないし、それぞれの登場人物が目も当てられないほど酷い目に遭うのですが、観客は悲しみの涙と一緒に、心が洗われた気がするんです。

なんでかっていうと、たった一人だけ‥自分を愛してくれた人の祈りが届き、希望のある人生を歩める人がいるからです。
それは、不遇の死を遂げたファンテーヌの娘・コゼットちゃんです。
コゼットちゃんは、ファンテーヌと元罪人ジャンバルジャンの愛と祈りの結晶とも言える、二人の祈りが叶えられた人生を予感させてくれる存在。
だから観客は、ジャンバルジャンがファンテーヌの姿の幻を見るラストシーンで、ジャンバルジャンとファンテーヌがコゼットちゃんに思っているだろう祈りの気持ちと愛をもって、舞台を見つめることができます。

実際は日常生活で、心から人の幸せを祈るなんて、俗人はそうそうできません。(私だけ?)
それなのに、レ・ミゼラブルは俗人の観客に、そんなすごいことをさせてくれます。
出会って数時間の、コゼットちゃんに。

この物語の女神・アイコンがファンテーヌたる理由

レ・ミゼラブルは、ジャンバルジャンの一生を描く物語、と銘打たれているものなのですが、そのジャンバルジャンは(もはや女神的な)ファンテーヌ/神様の御心を達成するためのvehicle(装置・手段)的立ち位置の主人公です。
観客はファンテーヌ/神様の目線で物語を観させられる‥という、ユゴーの作り出したそんな構図がとても面白いなぁと感じます。

新キャスト二宮愛さんのファンテーヌは実に現代的な女性像で、心打たれました。

そんなことを、新キャスト二宮愛さんの素晴らしいファンテーヌを観ながら、感じたのでした。
二宮さんファンテーヌの強い姿に、祈る姿に、愛を諦めない姿に、
レミゼラブルは悲劇ではなかった」とやっと気づいたのでした。
他でもない、愛と救済の物語だったんですね!

東宝さん、再演お願いします!絶対また観に行きたいです。