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右往左往するアラサ―女子の、気ままな備忘録・雑記です。

同棲していた彼氏が自殺して2.5年経ってからようやく墓参りに行った話

■何を思ったか、墓参り。

都合よく私を扱ってくれている男性が用事があってとある地方都市に行くと言い、「来る?」と言うので、ノコノコ付いていった。
死なれて2.5年、過去何度かトライしたけれどこの街には1人では来られなかった。
他の男に便乗して好きだった男の墓参りなんて不謹慎だって?自分で死んでいなくなるよりは200倍くらいマシだろう。
そして、それくらい不埒な動機というか流される何かがないと、脚を踏み入るエネルギーは湧かなかった。
今現在の私にとって、「私を都合よく扱ってくれる」と言うのは、「私にとって都合がいい」と同義だから。
ただ、そんな不埒な動機にしても、その町に赴いたとき、足がすくんだ。おお、今回はちゃんと駅の外に出たぞ……!

■男の子のための花束

故人はクリスチャンなので、教会の共同墓地に眠っている。
教会の牧師さんご夫婦に事前にメールを差し上げ、教会に赴いた。
「やあ、久しぶり、いらっしゃい」とたったそれだけ、たったそれだけの言葉だけれど、私というたった一瞬すれ違うように出会った女の存在を慈しんでくれる目を向けてくださったので、もうその瞬間に涙腺が反応してしまった。

「一緒にお花を買いに行きましょう、すぐ近くにあるから」と私を連れて、お花を選び、
「男の子だから、青とか紫を入れたいな」とつぶやく私の言葉をくみ取ってお花を買ってくださった。
今思えば、共同墓地、先生にとっては私にとっての故人だけでなく眠っている皆さんへの花だというのに、私の勝手を受け止めてくださったことがありがたかった。

■お墓ってのは、生きる人間のためのもの

先生と一緒に墓地に行き、お祈りをして、お墓の掃除をした。
お墓で少しの時間を過ごして、
「あっ、やっぱり、ここには故人はいねーや」
と思った。
彼の気配は、全く気配を感じなかった。
2.5年前の納骨の時もすでにいなかったけど、今回もやっぱりいなかった。
(この辺ひどくオカルトで申し訳ございません……でもね、火葬までは私のそばにいたの、「ごめんね、でも探してくれてありがとう」ってずっと聞こえてたから。)
「これからは自分が『行くか』と思った時だけ気ままにお墓に来ればいいや。お墓ってのは、生き延びねばならん人間のためのものだ。死者のためのものではないのだな……」
と感じた。
そして、
「墓参りにチャレンジしたことに意味があるのだ、2.5年来られなかった場所に来られた。それは私が生きるうえで意味があるのだ……」
とぬるい涙を流しながら自分に言い聞かせた。

■悲しみの横にはまたよく似た悲しみがたたずむもの

2.5年の時間の間に、先生にとって我が子と並ぶくらい大事な存在だった方も若くして自死したという。
「ひどく悲しみました。Hくん(故人)の死の悲しみが落ち着いたところで、のことでしたから。」
と先生は言う。

私は、先生があまりにも心や体を病んだ人の身の上話を聞き、時には問題解決のためにご自身で行動なさっていることを知っていたので、
「なぜ悲しみが人生に重なって起こりながらも、先生はそうやって前を向いて誰かのためにと生きていけるのですか」
と聞いてみた。
「私は、愛されていると感じているからです。神は私に受け入れるための試練を与えてくださる。この悲しみがいつかきっと誰かのために代えられると思って、私は未来を見ます。」
と、先生は静かににっこりした。

■ソロー(悲しみ)は漂う、だけど。

先生は私がノン・クリスチャンでキリスト教に関心があることを分かった上で、分かりやすく話してくださった。
「悲しみは同じ状態のままで未来永劫あるわけではありません。今日という一日は単なるプロセス・過程に過ぎないのです。悲しみが霧消することはないかもしれませんが、必ずプロセスを進めば、今とは違う形にあります。それはユキさんもこの年月で感じられたでしょう?」
「一つのプロセスに過ぎないのであれば、『どうやって』解決するか・ベターなものに持っていくか。それを考えるのです。その『どうやって』を考え、行動するための勇気やお守りになるのが信仰です。神がユキさんを助けてくれるのではなくて、ユキさんがご自身で力強く、そして健やかに生きていくためのバディとして、天にいてくれているのです」

私はちょうど先日、再読したJohn IrvingのThe Hotel New Hampshireを思い出した。
悲しみは漂うのだ。だけど、開いちまった窓のところでずっと突っ立ってその風景を傍観しているわけにはいかないのだ、次の場所に行かないといけないのだ、生きている限り。
悲しみは無くならない。でも、私のいる場所は変わっていかなきゃならない。生きている限り。

■たぶん、私にとっての未来永劫

「なぜ」「どうして」、何年も悩み苦しみもがいていた彼を知っているというのに、この堂々巡りは2.5年経っても終わらない。私の意識がオンである限り、寝ても覚めても何をしていても。
私は、”人間様がどうにかできる領分を超えた何か”、を感じざるを得ないというのが、今の心境。
それを人間は、”運命”と言い、”神”と言い、すんげー昔、2000年くらい前とかもっと昔から、畏れながら信じていたのだ、祈っていたのだ、っていう、信仰を持つ人たちの”信仰の芽生え”に対する納得感も持った。ただ、今の私が信仰を持つのかというとはてなである。
もう少し自分の力で人生を泳ぎ切って、少し人生を見渡せるようになったときに、信仰を持つかもしれないなと思う。
今はまだ、私は私一人であがくだろう、悲しむだろう、その結果、一生独身でも子供を持てなくても、シングルマザーになっても、もう細かいことは気にしない。それが私の人生なんだろう。
ちょっとだけ、自分この悲しみと渇望のカオスにうんざりする。

できれば好きな男(故人)と結婚して、子供を作ってやがてセックスレスだわとか言いながら子育てとかしてみたかった。愛の収束を見て見たかった。
その代わりにきっと、全て揃った人生を歩める誰かとは違う何かに行きついて死ねるだろう。というか、行きつかないと悔しいって言うかなんていうか。
彼が死んで、2.5年。他の男とセックスはできても、あの子に感じていたような愛は他の誰にも感じたことはない。
悲しみは漂う中で少しずつ変化していくというのに。
たぶん、私にとっての未来永劫。それが奇跡とか運命とか思い込みとか、なんでもいいけど、そういうことだ。